先週のお題の記事を書いた際、私が末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師として過ごした時間がある、という過去について触れました。
これまで、私がクリスチャンであることについて、このブログの中ではほんの軽くしか触れてきませんでした。
しかし、それだとどうにも表現しづらい思考や経験があることに気が付きました。
そのくらい、自分が『クリスチャンである』という事実が、私の人格形成に大きな影響をもたらしています。
クリスチャンになるまでの経緯
私の両親は、それぞれが同じ教会で改宗し、そこで出会いました。
私は、そんな両親のもとに生まれました。
つまり、生まれた時からクリスチャンとしての環境にありました。
(なので、「なるまでの経緯」という表現はちょっと違うかもしれないですね)
日曜日に教会に集うことは、私にとっては『普通』でした。
同じ教会に集っているたくさんの人たちから、自分が愛されていることを感じていました。
そして、その人たちを通して、自分が神様やイエス・キリスト様から愛されていることを感じています。
私の両親は、子どもである私たちきょうだいが「教会に行くことを『自分で選ぶ』ように」と促してきました。
事実、私が「行きたくない」と言ったときには、その思いを尊重してくれました。
他のきょうだいが同じようなことを言ったときにも、その子が自分で考えて選ぶように促していたそうです。
そして、私たちはそれぞれに自分で選び、今もクリスチャンとして生活しています。
私たち夫婦のこと
私と夫は、同じ教会の会員です。
信仰を共にしていることは、夫婦関係を良好に続けていく上で大きな助けとなっています。
つらいことや難しい状況の中でも、イエス・キリストの教えがあって、そこから学びや平安を得ていることは、私たちにとって大きな支えです。
今の状況と、これから
新型コロナウイルスの感染拡大により、私たちが集っている教会は2月の下旬以降ずっと閉鎖されています。
海外から来ていた宣教師たちは、3月中にそれぞれの国へ帰りました。
私たちは、それぞれの家庭で礼拝行事をしたり、聖文を学んだり、オンラインで話し合ったりしています。
これから、世界中の各地域で段階的に集会が再開されるようですが、それも各地の状況を見ながら随時調整されるようです。
当然のことながら、感染予防のための最大の注意を払う必要があります。
『コロナが来る前』にはもう戻れないのです。
それでも、イエス・キリストの教えが変わったわけではありません。
必要とされる奉仕ができる自分でいたいので、自分と周囲の人の健康を守る備えが必要です。
イエス・キリストの教えは、私たちの生活に必要な助けや導きを与えてくれます。
私自身も、イエス・キリストの教えを通して、たくさんのものを受けてきました。
これから、時折『聖書や聖文から学べること』をこちらにも書いていくようにしていきます。
『聖書』は意外と身近に感じられる書物なんだ、ということをお伝えできれば幸いです。